図書・交流課
翻訳家へのインタビュー:オチルフー・ジャルガルサイハン
2020-07-09 12:44

モンゴル国フブスグル県出身。モンゴル国立大学文学部卒業後、フブスグル県の学校にて教員となる。1993年から1998年まで国費留学制度(教員研究留学制度)により日本留学。東京学芸大学大学院修了。大統領府大統領補佐官を経て、現在、日本文学のモンゴル語翻訳家の第一人者としてご活躍中。
翻訳:『草原の記』、『ロシアについて 北方の原形』、『21世紀に生きる君たちへ』(司馬遼太郎著)、『学問ノススメ』(福沢諭吉著)、『自助論』(サムエルスマイルス著)、『源氏物語(桐壺-賢木まで)』(紫式部著)、『1Q84』(村上春樹著)、ほか多数

   日本語との出会い
 ~ジャルガルサイハン先生の日本語との出会いについて教えてください。~
私は1981年にモンゴル国立大学に入学し、モンゴル語とモンゴル文学を専攻しました。卒業後は、モンゴル語とモンゴル文学の教師になろうと思っていました。大学2年生となった1982年、私は日本語を勉強する学生5人のうちの1人に選ばれました。この時が、私と日本語との出会いです。中国語を勉強しようかとも思っていましたが、今、思うと日本語を勉強して良かったと思っていますよ。
1982年の大学2年生の時から日本語を学び始めましたが、最初の先生がナランツェツェグ先生とドルゴル先生でした。日本からもまず小貫雅男先生がモンゴルにいらっしゃり、続いて橋本勝先生、岡田和行先生、そして鯉渕信一先生に教わりました。ひらがな、カタカナから始め、『あたらしい日本語』という教科書や三省堂の辞書などを使って勉強しました。
主専攻であるモンゴル語とモンゴル文学を学びながら同時に日本語も勉強していたのですが、その時から私たちには「翻訳の基礎」というものが培われていったのではないかと思います。なぜなら、私たちは、モンゴルの文学、モンゴルの古典文学、近代文学、ロシア文学、世界の文学を学んでいましたので、翻訳に必要となる日本語の勉強と同時に、様々な国の文学に触れ、勉強していたからです。モンゴル語と文学、世界の文学、そして日本語、、、本当に文学と語学にドップリと浸かった大学時代でした。

私はフブスグル県の出身で、大学に入学する前はフブスグル県に住んでいました。私は高校生の時、成績が優秀でしたので、実はロシアの大学に留学できる機会があったのです。しかし、そちらを選択せず、モンゴル国立大学に入学しました。これについても今にして思えば、モンゴル国立大学に進学して良かったと思っています。

 ~ジャルガルサイハン先生にとって、日本語の勉強というのはどうでしたか?最初、日本語の印象はどんなものでしたか?~
日本語の勉強は、とにかく漢字が難しかったですね。モンゴル人にとっては(モンゴルは漢字圏ではないので)難しいです。ただ、社会主義当時、モンゴルの子ども達は5年生からロシア語を勉強していましたので、モンゴル人にとってはいわゆる外国語には馴染みがあり、「外国語は面白い」という感覚があったといっても言い過ぎではないと思います。私もそうでした。
日本語を勉強していて、「ああ、面白い」と思ったのは、モンゴル語と日本語の語順が同じこと。基本的に文章の成り立ちが同じですね。モンゴル語でも日本語でも「私は・学校へ・行きます」という語順は同じです。
次に漢字ですが、私の場合、「漢字は見るほどに面白いものだ」と思いました。漢字はもちろん難しいのですが、私たちモンゴル人は漢字を使っていなかったので、面白かった。例えば「翻訳」という漢字。「なぜ、“翻”という字の中に“番”という漢字があるんだろう?」と、いう風に漢字の成り立ち・構成が面白かった。それが私にとっての日本語の、漢字の勉強の面白さでした。漢字の勉強は、徹底的に、集中的にしました。今はパソコンを使っているので、実際に手で書くということは少なくなりましたが、当時は漢字を書くことに時間をかけて、漢字をよく見ていました。
当時の若者は、こういうことを「面白い」と思っていた時代ですね。今の時代は、このようなことは思わないでしょうけれどね(笑)。

   ~先見の明~ 鯉渕先生の一言
 ~日本人の先生方の印象はいかがでしたか?~
私たちよりも先生方のほうが苦労していたのではないかと思います。なぜならば1980年代のモンゴルは社会主義時代でしたので、日本に対するイメージが正直、いいものではなかったんですね。日本人といったら―「侍」―。当時、「侍」とは、「軍隊」や「兵士」といった意味をもっていましたので・・・。だから日本人の先生たちは、私たちよりも苦労されていたと思います。
しかし、私たちに日本語を教えてくださっていた先生方は、非常に優しくて、私たちに対していつも丁寧に接してくださっていました。だから先生方と私たち学生の間は、何の問題もありませんでした。
当時のモンゴル人は非常にまじめだったんですよ(笑)。成熟した人間だったといえるでしょうかね。だから、日本から来られた先生方も、「モンゴルが面白い、モンゴル人が面白い、モンゴルの社会が面白い」と感動されていたと思います。

私は1986年に大学を卒業しましたが、その時には、モンゴルに日本語の専門家は必要ないと言われていました。それは、日本語を習っても日本語を使う仕事がなかったからです。当時、日本語を勉強した人が働く場所は、外務省に1人か2人、Gobiの工場に1人ぐらい、モンゴル中央図書館に1人、そんな感じでしたよ。それらの場所には、既に私たちの先輩が働いていました。ですので、私たちは大学で日本語を勉強した、専門性を身につけたといっても日本語を使った仕事はありませんでした。

1984年でしたでしょうか、鯉渕先生がモンゴル国立大学に赴任されました。
ある日、日本語を勉強していた5人のクラスメイトと「日本語を勉強しても、日本語を活かした仕事はないよね、、、」と話したり、ちょっと日本語の勉強を怠けたりしていました。そんな時、鯉渕先生がこうおっしゃったんです。「もう、気にするな」と。「しかし、ちゃんと勉強しなければダメだよ」ともおっしゃいました。「日本語を使った仕事がないからといって気にすることはないですよ。あなたたちは、モンゴル語、モンゴル文学の先生になればいいのですから。でも、まあ、10年後、モンゴルで日本語が必ず必要になりますよ。そういう時代が来ますからね」とおっしゃいました。1986年のことです。
1986年というと“変化”のきざしを感じさせるような、世界で色々なことがあった年、変わり目の年だったと思います。ロシアでも所々でペレストロイカの波が徐々にあったでしょうし、共産党の力が弱くなっていたでしょうから、鯉渕先生は、この後に起こりうる世界の大きな変化の予兆を感じておられたのかもしれません。

   フブスグル県での教員時代から日本留学へ
私は大学を卒業して、出身地のフブスグル県に戻り10年制学校の教師となりました。モンゴル語(国語)と文学の先生です。その学校で働き、副校長にもなりました。フブスグルに戻ってからも私は日本語を忘れないようにと、机の上に辞書を置いて辞書を引いたり、『あたらしい日本語』をみて日本語の勉強をしたりしました。ただ、社会主義当時のモンゴルの一般の人にとっては、漢字だけを見ると日本語か中国語かわかりませんでしたので、いいイメージを持っていない人がいた時代でもありました。周りの人からみれば私は「漢字を勉強している人、知っている人」ということで、私に風当たりが強かったこともありましたし、奇異な目で見ていた人もいたことでしょう。
ちょうどその頃、モンゴルにも民主主義の波が押し寄せている頃でした。テレビ放送は当時1局だけの国営モンゴルテレビからウランバートルの様子が映し出されていました。ウランバートルでもフブスグルでもハンガーストライキが行われました。社会の大きなうねり・変化・変革、そして私自身は、フブスグル県から出ようか・・・と心が揺れていた時期でもありました。

そんな中、私に大きな転機が訪れました。
モンゴルでは教育に関する様々な大会・コンテストがあるのですが、とあるコンテストで、私が書いた論文がモンゴル国内で1位となったのです。その論文の内容は、どのような教育が子ども達にとっていい教育か、どういった教授方法がいいのか、といったものだったと思います。
そのコンテストで1位となったので、1991年にフブスグル県から首都・ウランバートルに出てきて1993年10月までの2年間、モンゴル国立教育研究所で働く機会をいただきました。さらにちょうどその時、教員を対象とした日本国政府の国費留学制度(教員研究留学制度)で日本に留学する機会も得ました。まず、横浜国立大学で半年間日本語の勉強をし、その後、東京学芸大学で教員研修について勉強し、引き続き学芸大学の大学院に進学して、教育哲学について研究しました。
もちろん、これら勉強したことや研究したことは、モンゴルに帰国した後、モンゴルで生かすことが目的です。ちょうど90年代は、モンゴルの教育政策が変わっていく時でしたからね。私は博士課程まで進むことも考えましたが、モンゴルに帰って仕事をしようと思い、1998年に帰国しました。

   運命の一冊 『草原の記』


東京に留学していた時、恩師・鯉渕先生に司馬遼太郎さんの『草原の記』の文庫本をプレゼントしていただいたんです。それを読んでみたら、この『草原の記』は、本当にスケールの大きな本でモンゴルに帰ったような気持ちになるほどでした。それと同時に、私は自分自身の国・モンゴルのことを知らなかったという反省もしました。司馬遼太郎さんはモンゴルのことをここまで愛してくれている、モンゴル人以上にモンゴル人のことやモンゴルのことを知っている、愛をもってモンゴルのことを見てくれていることが伝わり、「なんて素晴らしいんだ」と思ったんです。
当時、大都会・東京で暮らしていたこともあり、(ビルが林立しているので)太陽の日の光が差していなかった印象を持っていましたが、この本を読むと草原に陽が昇っていくのが眼に浮かびました。そこで、「この本をモンゴル語に翻訳しよう!モンゴル語に翻訳してモンゴルの人たちに読んでもらおう!」と思ったんです。

私はこの本をモンゴル語に翻訳したいと鯉渕先生にお伝えしました。私には翻訳の経験はありませんでしたし、また、日本でもとても有名な作家・司馬遼太郎さんの本だったため、鯉渕先生は始め、驚かれたと思いますし、私にできるかなと思われたことでしょう。しかし「やってごらんなさい」と応援してくださいました。
1995年当時は、今のように分からないことがあった時にすぐインターネットで調べることができる環境ではありませんでしたので、ロ日・日ロの辞書を使い、その後、ロシア語からモンゴル語へ翻訳していく、、、といった感じで、一行一行丁寧に心を込めて翻訳していきました。今は私自身も翻訳の経験を積んできましたし、分からないことがあるとすぐにインターネットで調べることができますが、当時はもう、それはそれは必死で翻訳しました。ですので、この『草原の記』は、思いがたくさん詰まった一冊です。
1996年に司馬遼太郎さんがお亡くなりになり、1997年にモンゴルでこの本が出版されました。出版された時には、司馬さんの奥様・みどりさんがモンゴルに来られ、(司馬さんの通訳を務められたことのある)ツェベクマさんも来てくださいました。本当に素晴らしい時間でした。

ある日、大統領府から私の元に電話がかかってきたんです。当時の大統領バガバンディ**さんが日本を公式訪問される、そして司馬遼太郎さんに北極星賞を授与するとのことでした。私が『草原の記』をモンゴル語に翻訳し、出版したということを聞きつけられて、電話してくださったとのことでした。大統領に司馬遼太郎さんのことを教えていただきたいということだったんです。本当に驚きました。
**ナツァギーン・バガバンディ;モンゴル国第2代大統領(1997年~2005年)。1998年5月訪日「友好と協力のための共同声明」を発表。続いて2003年12月訪日「共同声明」を発表。

当時のモンゴル人で司馬遼太郎さんのことを知っている人は、ほとんどいなかったでしょうから、おそらく日本側のモンゴル研究者かどなたかが、表彰対象として司馬遼太郎さんを推薦されたのではないかと思います。そこで私はバガバンディ大統領(当時)に、司馬遼太郎さんの作品のことや、モンゴルにも2度、訪問されたことがあることなどをお伝えしました。

大統領が日本からモンゴルに帰国された後、「ジャルガルサイハンさんという人は、どういう専門性をもった人なのか」という話になったようです。私は日本での留学経験、教育関係の修士論文を書き、修士課程を修了、修士号を取得していることをお伝えしました。そしてその後、1998年5月から大統領府に勤めることになり、教育・文化・科学担当の職員、大統領補佐官となりました。
『草原の記』一冊が、私の人生にとって大きな大きな転機となりました。

次々と日本文学を翻訳 ~9世紀から21世紀の作品まで~            
 ~渾身の作品・紫式部の『源氏物語』~
『源氏物語』を翻訳することになったのは、エンフバヤル元大統領**が、「世界の古典文学50作品をモンゴル語に翻訳する」といったプロジェクトを始められたのがきっかけです。エンフバヤル元大統領は、文学がご専門の方で、かつロシア語も英語もご堪能です。『源氏物語』をロシア語か英語で書かれたものをお読みになっていたのかもしれませんが、「『源氏物語』を翻訳できる人はいないか」ということで、私に白羽の矢が立ったわけです。「『源氏物語』をおいて、何を古典文学と言おうか」といった感じでした。
**ナンバリーン・エンフバヤル;モンゴル国第3代大統領(2005年~2009年)。ソ連のゴーリキー文芸大学を卒業したあと外国文学翻訳家として多数の外国語作品をモンゴル語に紹介

まわりの方々、日本の皆さんは、『源氏物語』を(モンゴル人が)モンゴル語に翻訳するということにまず驚かれます。そして次に「このような素晴らしい本を、はたしてモンゴル人が翻訳できるのかしら」と、一種の疑問の眼で見られているような感じでしたし、試されているような感じでした。
『源氏物語』関連の本で私の手元にあるのは、瀬戸内寂聴さんが書かれた『新・源氏物語』と谷崎潤一郎さんが書かれた『新々訳源氏物語』です。与謝野晶子さんの『源氏物語』も取り寄せました。同じ『源氏物語』でも、三者三様の良さがあります。瀬戸内寂聴さんが書かれたものは、若い人にも読みやすいような文章表現で分かりやすかった。谷崎潤一郎さんの文章は、説明文が素晴らしいんです。谷崎潤一郎さんもそうですが、与謝野晶子さんのものは、非常に文学的な表現です。


同時に3作品を読み、翻訳の際の参考にしました。この『源氏物語』の翻訳は、本当に難しかった。『源氏物語』には、モンゴル人には分からない世界があるんですよね。また、『源氏物語』を翻訳する上で一番難しかったことは、モンゴルにないもの、例えば花や植物、中国の文化や習慣、しきたりなどが出てくることでした。面白いんですが、難しかったですね。

2008年の「源氏物語千年紀」という、『源氏物語』成立千年を記念して様々な行事が日本で開催されたのですが、私も(2008年に)日本へ行きました。そこで、日本文学と日本文化研究の第一人者であるドナルド・キーンさんにお会いし、エンフバヤル大統領(当時)から直々にお預かりした書簡をドナルド・キーンさんにお渡ししました。そこには、こう書かれていました。(抜粋)

ドナルド・キーン先生の素晴らしい日本文学・日本研究を通じて、私は日本文学、特に『源氏物語』を好きになりました。どうぞいつでもモンゴルにいらっしゃってください。
                                                                                                                  モンゴル国大統領 N.エンフバヤル

この『源氏物語』のモンゴル語訳されたものは、若者たちにも読まれていますよ。古典文学というものは、1000年以上も昔のものなのですが現代にも通ずるものがありますし、非常に表現が素晴らしいです。決して古びたものではなく、現在も生きているものだということを実感します。『源氏物語』が世に出た当時の本といえば、政治が中心の内容でしたので、この『源氏物語』は、世の中に爆発的な衝撃を与えたのではないかと思います。
『源氏物語』のモンゴル語版1巻が出版された後、10年後に2巻を出版しました。

というのも、1巻を出版した後に、私は国際交流基金の『知的交流プログラム』に参加したのです。日々の研究を行う場所は、京都市にある「国際日本文化研究センター(日文研)」でしたが、ものすごく充実したいい研究ができました。『源氏物語』の本や詩集などをとことん読み、本当に読書漬の日々を過ごしました。図書館に個室があるのですが、そこに本を運び、朝から昼まで、昼休みを挟んで、午後からは図書館が閉館になるまでずっと個室にこもって本を読んでいました。ここで本を読んで読んで読んで、研究に研究を重ねて、モンゴルに帰国後、翻訳への情熱が沸き上がり、私がこの間に蓄積した『源氏物語』に関する全てのことを整理して、第2巻ができたのです。研究と同時に翻訳もできた充実の時間でした。もう一度、あのセンターに行きたいです(笑)。

 ~ジャルガルサイハン先生のお話を伺っていると「翻訳家を目指そう!」という感じではなく、その時々で人や本との出会いがあったように思います~
そうですね。素晴らしい本との出会いがあって、私は本に導かれるように翻訳活動を行ってここまできた、、、という感じでしょうか。
私は教師であり教育が専門ですので、日本での留学生活を終えた後、モンゴルに帰国して、例えば私立の学校を創設する、、、といったこともできたと思います。そういう道に進むこともできたでしょう。しかし、そうではなく、後世にまで残る「本」を選んだ。このような(人生の)選択をしたんです、私は。

話は変わりますが、モンゴル人は社会主義時代、ロシア文学はもちろんのこと、ロシアを通じてドイツやドイツ文学、フランス文学、当時は珍しかったですがアメリカ文学なども入ってきていましたので、皆、よく読んでいましたよ。学校でも教えていましたし、家でも読んでいた。(社会主義時代は)きつい時代だったけれど、視線の先は、世界に、海外に向いていました。日本文学といえば、ロシアを通じで少し入ってきていたかな。そんなに盛んではなかったけれど俳句なども訳されていましたよ。

大統領府での仕事と翻訳活動など文学の分野での仕事の両立が厳しくなっていきました。そして2011年、大統領府の仕事から離れました(退職しました)。

 ~世界中に「ハルキスト」**がいる村上春樹の作品~
**小説家・村上春樹の、熱狂的なファンの通称
『源氏物語』の次に出会ったのは、村上春樹さんの作品です。最初は「1Q84」でした。モンゴルの大手出版社「エドモン」の社長エンフバットさんが、ドイツのフランクフルトで開催されていた「ブックフェア」に行かれ、ドイツ語に翻訳されていた村上春樹さんの本がものすごく評判がいいということで、モンゴル語訳したいという話があって、私に翻訳の話をいただいたんです。


しかし、私は翻訳のお話をエンフバットさんからいただいたにも関わらず、2年間、放置(笑)していました。しかし、2年経った後、再びエンフバットさんから「村上春樹さんの『1Q84』を翻訳してほしい」と依頼があったんです。そして読むと、本当に面白い本だったんです。面白くて読むことが止まらなかったんです。「なぜ、私は翻訳しなかったんだろう。なぜ2年間、何もしなかったんだろう」と思いましたよ(笑)。最初にお話をいただいた時は、きっと気持ちが乗らなかったんでしょうね。結局、翻訳するまでに3年近くかかりました。この『1Q84』は、読みながら翻訳作業を進めました。
続いて『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、自分から翻訳をやろう!と言いまして、『騎士団長殺し』の1部(1巻)のモンゴル語翻訳は最新の翻訳した作品で、現在、2部(2巻)を翻訳中です。村上作品の翻訳は、ここで一旦、区切りをつけようと思っています。

 ~ジャルガルサイハン先生から見た村上作品の特徴はどんなものでしょうか?~
すばらしい作品ばかりです。村上春樹さんの作品は世界レベルであり、世界中に何百万人、何千万人もの人が読んでいます。村上作品を読まないと落ち着かない人というのもいますよね。
村上春樹さんの本を通じて私が教わったことは、「人間の精神の形」です。人間の精神の形は、四角でもあり、三角でもあり、丸でもある。この精神の形が変わるたびに、また変えるたびに、この世の中に生きて、存在している人間の行為が変わる、、、ということ。人間という生き物は、この変わり方を探し求めているのではないか、と思います。村上作品は、人間が大人になっていくための心の成長過程・成熟過程や若者たちの精神発達に合っているのではないかと思います。
また、「人間の“壁”の薄さ」ということも教わりました。紙一重ですね。少し行けば悪い、少しいけばいい。いい事の中にも悪い事があり、悪い事の中にもいいことがある。村上さんの小説は、それらのことを非常に繊細に、細かく描かれていると思います。

 ~ジャルガルサイハン先生は、翻訳される本の分野を選ばれていますか?~
翻訳する本は自分で選びます。私の専門は「教育」ですから、純文学よりも教育や学問に関する本、教育や学問に関する本を翻訳しています。例えば、「自助論」と「学問ノススメ」の2冊を翻訳しましたが、これは明治時代以降の現代日本を作った書籍とも言えるのではないでしょうか。そういうポイントでこの2冊をとらえた時、モンゴルの民主主義以降の教育、国づくりを模索していた時期と重なり、モンゴル人に読んでほしいと思った2冊でした。

私が翻訳した作品は9世紀の作品『源氏物語』から21世紀の村上作品へと飛んだのですが、この間の時代の文学の世界では何が起こっているのだろうと思い、「教育」分野の本から少し離れ、芥川龍之介、夏目漱石、森鴎外、太宰治など日本の有名な、素晴らしい作品を翻訳して作品集のようにまとめた本も出版しました。「読みたい、知りたい」という思いと同時に、翻訳もするというのは、幸せでいい経験でした。

   翻訳活動の思い、読者の皆さんに向けてのメッセージ
 ~それでは最後に、ジャルガルサイハン先生の翻訳への思い、また、読者の皆さんに対して、メッセージをお願いいたします~
私の翻訳した作品を通じて読者は、日本語や日本文学、日本の文化、日本の知恵、日本の知識、全てを知り、学びます。まずは、翻訳された本を入り口に、モンゴル人が日本人に親近感をもってもらえればと思っていますし、日本人の心を日本文学で知り、学んでほしいと願っています。

翻訳家を目指している人へのメッセージとして、1つは「日本語を学ぶ」ということは、「日本文化を学ぶ」ということ。そしてもう1つは、日本語という言語、語学、言葉自体を習うというのはもちろんいいことですが、「『言葉の後ろにあるもの・あること』まで読み取ることが大事」ということです。翻訳家にならなくても、言葉を勉強している人は、これらのことも学んでほしいと思っています。言葉の成り方・成り立ち、言葉の表現の力。単に目に見える字面だけを読み進めたり、覚えたりするのではなく、言葉から発せられている悲鳴、音、哲学など、、、。一つの言葉には、その意味、背景、深さ、広がりがありますね。これらも同時に学びましょう。若い時から、学んでほしいことです。

日本語には元々独特な表現があります。宗教や文化もある。もちろんモンゴルもそうです。日本文学を日本語からモンゴル語に翻訳する時に、モンゴル語がない・足りないということはありません。しかし、モンゴル語が足りているといっても完璧な、満点な表現を導きだすというのが難しいんです。ただ、このインタビューの冒頭で私が申し上げましたが、私はモンゴル国立大学に在籍中に、モンゴル語・モンゴル文学を専攻したことによって「翻訳の基礎」ができていたと思います。
そして、若い時ならば、翻訳が難しい部分はそのままにしてしまう、、、という術がありましたが、今の私の立場では、そのままにすることはしません。モンゴル人に響きそうな表現を見つけられます。日本の古典的な言葉や文化を、モンゴル人でも理解できるように、私ならではの方法や表現を身につけてきました。モンゴル国立大学でモンゴル語・モンゴル文学、日本語を勉強し始め、最初に司馬遼太郎さんの『草原の記』を翻訳してからから約30年という月日が経過しました。30年前の私にはできないけれど、今の私だからできる。「経験を積む」ということは、こういうことですよね。
我々の受け止めることのできないほどの表現もどんどんどんどん出てきます。それをどうやってモンゴル人に分かりやすく伝えるかは、日本についての関心、研究、知識が必要になってきます。

最近は新しいことにも取り組んでいます。モンゴルのいい作品を日本語に翻訳したいという気持ちがあるんです。モンゴルのロックグループ「The HU」の歌詞を日本語訳したんですよ。彼らが日本でコンサートをする時に、何について歌っているのかを日本人に知ってほしいからなんです。
また、村上作品を読んで私に連絡を取ってくる若者もいます。自分の意見や感想、私が村上作品を翻訳していること自体、どう思っているのかなどを正直にぶつけてきます(笑)。私は受け止めることができますし、若者が本を読んでくれていることが分かりますし、可愛らしい。嬉しく思っています。

モンゴル人も日本人も同じ人間。人間の在り方というのは、つまりは心の問題だと思います。お互い人間なのだから通じないわけがないですよ。これは人間として根底にあるものだと思います。
私の翻訳した作品で、モンゴル人も日本人もお互いに理解し合える、人間同士の理解の一助になりたいと思っています。

2020年6月11日
(インタビュアー;藤野紀子/モンゴル日本センターJF講座調整員)