図書・交流課
翻訳家へのインタビュー:ダムバダルジャー・ナランツェツェグ
2020-07-28

モンゴル国ドルノゴビ県出身。モンゴル国立大学文学部卒業後、同大学日本語学科の日本語教師となる。在職中に東京外国語大学に国費留学。モンゴルに帰国後、同大学に復職、その後1991年に来日し、独立行政法人国際協力機構(JICA)青年海外協力隊の派遣前訓練のモンゴル語語学講師としてご活躍。2017年にJICAを退職、モンゴルに帰国。
書著:『日本語・モンゴル語基礎語辞典』、『モンゴル人のための日本語教科書』
翻訳:『白い馬』(椎名誠著)、『裸の王様』、『パニック』(開高健著)、ほか

日本語との出会い
~ナランツェツェグ先生(以下、ナラン先生)の日本語との出会いはいつ頃だったのでしょうか?~

最初に日本語に触れたのは、モンゴル国立大学でモンゴル語、モンゴル文学を勉強していた時です。大学3年生の時に10人ほどの学生が、当時の(文学部の)学部長の部屋に呼ばれました。学部長は「これから、あなたたちのうち半分は中国語、半分は日本語を勉強します。日本語を勉強したい人は手を挙げてください」とおっしゃったんです。その時、今でも親友のドルゴルと私を含めて6人が手を挙げたんです。これがモンゴルにおける日本語教育の始まりです。1975年の1月の末だったか2月頃だったでしょうか。冬休みが終わった頃でした。
その当時は、日本人の日本語の先生はいらっしゃらなかったんです。シャーリブー先生という凄い先生、そしてジャンバルスレン先生という先生がいらっしゃいました。お二人とももう亡くなりましたが・・・。日本語の読本だったでしょうか。シャーリブー先生がお持ちの本があって、私たちはまだ日本語は何も分からないけどとても面白い本だったんです。「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の話とか(笑)、話してくださいました。シャーリブー先生は、第二次世界大戦の時に内モンゴルにいらっしゃった方で、日本の陸軍大学出身の人です。先生は漢字を書いて読み方を教えてくださいました。今思うと、陸軍大学で教わった教授法だったと思います。先生は読む、私たち学生は必死にノートに書いていく。時々、色々な話をたくさんしてくださったのですが、それが面白かったんです。このような感じで、モンゴルで日本語教育が始まりました。当時は本、教科書はなかったのですが、在モンゴル日本国大使館が『正しい日本語』を6人分持ってきてくださいました。
先生が教えてくれる漢字は、とにかく全部覚えていかなければなりませんでした。難しい漢字も簡単な漢字も全部一緒、ごちゃごちゃと混ざっていた。今のように、日本語の初級、中級、上級というふうに整理されていませんでした。とにかく必死で覚える。今でも漢字が苦にならず読めるようになったのは、そのお陰だと思います。当時はとにかく覚えるしかなかったんですよ。

~ところで、ナラン先生は大学生の時に学部長から呼ばれて、中国語か日本語課を選ぶ時に日本語を選ばれたわけですが、日本語を勉強して何になろうとか、日本語を勉強したらどうなるか、、、と将来に対して想像ができましたか?~
想像できなかったですよ。もちろん日本はどこにあるとか、例えば、お正月の時には、私の父と同年代の男性から「ハルハ川の戦いに参加した」といった話などは聞いていましたよ。でも、情報はそれぐらいでした。また、当時のモンゴルは社会主義でしたから、、、資本主義の日本とは違いますよね。
しかし日本語の世界に飛び込んでいった。なぜだろうね(笑)。やはり運命だったのかなと思います。ただ、1972年にモンゴルと日本は外交関係が樹立しましたね。そういったこともあって、関心が寄っていったのかな?と思います。日本語は聞いたことも見たこともなかったんですけどね。

人との出会いが重なって・・・
~ナラン先生は、国費留学生として日本へ留学されましたね~

そうです。研究生として留学しました。1977年にモンゴル国立大学卒業して、すぐ同大学で日本語講師として働きました。そして1982年から1984年まで日本に留学し、日本からモンゴルに帰国後、モンゴル国立大学に復職し、日本語を教えました。
今でも親交があり、私の師でもある鯉渕信一先生との出会いは、鯉渕先生が客員教授としてモンゴル国立大学に来られた時です。1年間、鯉渕先生と私達は一緒に働いていました。それからのお付き合いです。また、国際交流基金からも先生たちが派遣されてきていました。
最初は、東京外国語大学の蓮見治雄先生。早稲田大学から吉田順一先生、大阪外国語大学から荒井伸一先生、小貫雅男先生、橋本勝先生が来られました。私達は、本当に素晴らしい先生達から教えていただきました。ドルゴルと私は2年半ぐらい日本語を習ったんです。そして大学の先生になったわけですけれども、今考えると、「よく教えてきたな、、、。」と思いますよ(笑)。とにかく教えるのに必死だった。だから吉田先生、橋本先生、荒井先生、そして土屋千尋先生も一生懸命に私たちに教えてくれた、指導してくださったんだと思います。何がなんだか分からなかった、当時は十分な教材もなかったですからね、必死だったんだと思います。

椎名誠さんという、モンゴルのことが好きな作家がいらっしゃいますね?椎名誠さんと鯉渕先生はご友人でした。椎名誠さんは『うみ・そら・さんごのいいつたえ』という沖縄県の映画を制作されていて、これをモンゴルに紹介したいから翻訳してくれないか、という依頼が私にあったんです。私はこの映画をモンゴル語に翻訳しました。これを翻訳した後に、かねてよりモンゴルに関心のあった椎名さんには「やはり、モンゴルへ行って映画を作りたい!」という思いがあって、『白い馬』という映画を制作されました。その翻訳も私が担当しました。1990年代後半の「椎名さんとモンゴル」と言えば、この『白い馬』だったと思います。椎名さんとの出会いも大きかったです。

「開高 健」という人
私が鯉渕先生のご自宅にお邪魔した時だったかな。鯉渕先生から「モンゴルのことが大好きな先生がいるんですよ」と伺いました。それは開高先生のことでした。開高先生は、ものすごい方だったようです。ある時、開高先生は「チンギスハーンのお墓を探さないか」と言われたそうです。これが、モンゴルと日本の協働事業として知られている、チンギスハーンのお墓を探すプロジェクト「ゴルバンゴル計画」のことです**。その後、誰かが、恐らく鯉渕先生だったのではないかと私は思うんですけど、「開高先生、それは無理ですよ」とおっしゃったそうです。そうしたら開高先生は「見つからなくても意義がある、意味がある仕事なんですよ。現代の技術や科学をもってしても13世紀頃の知恵や知識には勝らない、ということが証明されるわけじゃないですか」とおっしゃったそうです。

開高先生は本当にモンゴルのことが好きで、よく勉強していた人のようです。モンゴルの文化やモンゴルの歴史を本当に大切にされていた人だと思うんですよ。本の冒頭(前書き)にも「モンゴルの遊牧民の文化は、余分なものがない、欲がない、純粋な文化だと思う。モンゴル人は、お城やピラミッドなどを作らなくても、自然、地下資源、生きる知恵、生き物を愛する心、昔話、歴史話など、そういうものを伝えてくれた文化」ということを書かれているんです。
チンギスハーンも自分のお墓を作ってない、宮殿なども作ってない、普通の人間と同じように最後は土に入りましたね。「チンギスハーンのお墓を探すプロジェクト」が終わる少し前に、志半ばで開高さんは亡くなったんですが、ご本人も見つからないだろうと思っていた、分かっていたかもしれません。しかし「探すことに意味がある」と思っていたんだと思います。
鯉渕先生によれば、開高先生とアルハンガイに一緒に釣りに行ったことがあるそうですが、開高先生は普通の、地元のおじさんみたいだったそうですよ(笑)
**チンギスハーンの陵墓探しのプロジェクト「ゴルバンゴル計画」・・・3つの川という意味。チンギスハーンの生誕地であり、埋葬地と推定されるのがヘルレン、オノン、トーラという3つの川の源流とされていることからと名付けられた。

開高 健さんの本を翻訳
~ナラン先生がモンゴル語に訳された開高健さんの書籍について、教えてください~

開高先生の本『パニック』と『裸の王様』、これは私が日本にいた時、1998年から翻訳を始めました(1999年にモンゴル語版を出版)。『パニック』の原作は1957年、『裸の王様』の原作は1958年に出版され、『裸の王様』は芥川賞を受賞されています。
開高先生が亡くなられた後だったんですけど、鯉渕先生から「開高先生の小説は素晴らしいものばかりなんですよ。1冊でも2冊でもモンゴル語に翻訳したいな」というお話があり、私が訳すことになったんです。
~鯉渕先生は、旧知の仲であるナラン先生に頼まれたのですね。なぜ、数ある開高さんの作品の中から『パニック』と『裸の王様』を選ばれたのでしょうか?~
それは鯉渕先生がね、「この『パニック』と『裸の王様』の内容は、これからも人が知っておかなくてはいけないこと」だとおっしゃったんです。1950年代の日本、そして1990年代のモンゴルは同じことが起きているわけでしょう?これらの時代はそれぞれの国の中、社会が混乱していました。これからも起こり得るかもしれないことですよ。いつになっても、いつの時代でも読まなければならない、読んでほしい小説の一つだったのだと思います。モンゴルは’90年代当時、社会主義から資本主義、市場経済化に移行して、本当に混沌としていたましたが、今もそうですよ。今も貧富の差はあります。いろんな問題がモンゴルにはあります。

この翻訳は本当に難しかったです。私はそれまでも昔話を翻訳したりしていましたし、先ほどお話した椎名誠さんの『うみ・そら・さんごのいいつたえ』も、これは沖縄県の方言などがあって難しいのですが、椎名誠さんが現代語訳をしてくださってそれを翻訳したりしていました。しかし、開高先生の言葉、開高先生の日本語は簡単ではなかったです。また、日本の習慣とか食べ物とか、十分に分からないこともあるんです。例えば魚の名前とか。「するめ」は、(モンゴル語訳せずに)「するめ」のままにしました。もちろん、当時は私の翻訳の経験も浅かったんです。もう一度、この本を出版できるのであれば、直したい部分はありますよ(笑)。

翻訳している時に、本当に困った時、分からない時は鯉渕先生に電話をして聞いていました。「この言葉の意味、この文章の表現の意味が分からない」ということを鯉渕先生に相談しながら翻訳していました。そういった意味では、鯉渕先生も最初から最後までこの翻訳に関わってくださったわけです。本は作家によって表現が違いますからね。開高先生は日本人にとっても、いい言葉を使われています。そして深いです。
この『パニック』と『裸の王様』のモンゴル語翻訳・出版は、「開高健記念館」のオープンに間に合いました。

翻訳の難しさ
とにかく私はどの翻訳もそうですが、日本語をそのままモンゴル語にしてはいけないと思っているんです。開高先生は何が言いたいのか、何を伝えたいのか。それをモンゴル人にはどう表現すれば分かりやすいか、ということを考えなければいけないと思います。そう思いながらモンゴル語訳をしました。
私は翻訳された本を読みますが、正直言って、時々、「この文章は何が言いたいのだろう?」というような文章に出会う時もあります。今回、このインタビューを受けるにあたって、私はもう一度、自分が翻訳した『パニック』と『裸の王様』を読みましたが、幸いなことに意味の分からない文章というのは無かった。良かったです(笑)。かたい文章表現や直訳はなく、意訳をしている。今、改めて読んでみて、振り返ってみて良かったです。救いです。翻訳って、難しいけど面白いんですよ。

モンゴルでとても有名な作家ダㇺディンスレン先生が翻訳された、モンゴル人であれば誰でも知っている「Алтан загасны үлгэр」は、ロシア語からモンゴル語訳にされた本ですが、これは本当に素晴らしい翻訳ですよ。原作・原文をも超えたいい翻訳だと思います。モンゴル人であれば、1回読めば覚えてしまう、それぐらい素晴らしい翻訳なんです。私もそのような素晴らしい翻訳をしたいと思っているのですが、そこまでたどり着けないんです。
ダㇺディンスレン先生は、モンゴル語が素晴らしいんです。もちろん、ロシア語もよく分かっている先生です。ロシア語も分かっているけれど、それ以上にモンゴル語をよく分かっている人です。そうでなければ、(そのレベルにまで達した翻訳が)できないと思います。例えば、外国語から自分の母国語・モンゴル語に翻訳する時には、やはりモンゴル語が一番よくできないと、訳の分からない、かたい文章ばかりで直訳が多くなります。だから翻訳というのは難しい。外国語だけができる人には、翻訳はできないと思いますよ。

最近は、モンゴル人の中でも日本で生まれ育って、日本人と同等、あるいは日本人より日本語ができる子ども達が増えてきていますね。(モンゴル人であるご両親とはモンゴル語で日常会話はされているでしょうから、モンゴル語は理解できると思いますが)では、その子ども達がモンゴル語に翻訳ができるかといえば、できないですよね。だから私が救いとなっているのは、私はモンゴル語学科でモンゴル語を勉強して、モンゴル文学を勉強していたから、翻訳したいと思えたのだと思います。日本語だけ勉強した人、英語だけ勉強した人がモンゴル語訳をするのは難しいと思います。
モンゴル人は皆モンゴル語ができます。しかし、みんなモンゴル語が教えられるわけではないですし、本は書けないですよね。それと同じです。翻訳家というのは、母国語がよくできないといけないと思います。本当に才能があって優秀な人ならできるかもしれないけれど、もしかしたら専門家でなければ難しいかもしれません。ダㇺディスレン先生は、才能もあってモンゴル語もできた方だったからこそ、素晴らしい翻訳ができたんだと思います。すごいですよ。

モンゴル語は豊かですから、ロシア語でも日本語でも訳そうとすると、その言葉に対するモンゴル語が5つも6つも、いろんな意味の言葉が出てくるんですよ。その中から一番適した言葉、一番いい言葉を選ぶということは難しい事なんです。言葉が頭に浮かばない時もありますし、辞書に書いてないこと、ぴったり合う言葉がない時もあります。私は辞書もつくっていますから分かります。辞書はだいたいの意味を書いているので、そういう難しさはあると思います。自分が納得した言葉を選ぶには時間がかかります。何回も何回も読みますよ。そして何回も書き直さないといけないんです。

「通訳」と「翻訳」は違う仕事ですよね。翻訳された本は、読んでいる人が「内容が面白い、文章が読みやすい、表現が上手い・上手くない」ということを読みながら見ているわけですよね。翻訳したものは残る仕事です。したがって、翻訳は面白い仕事だと思いますが、たくさんの人が考えながら読みますから責任感も感じるわけです。間違った翻訳をしてしまったら、作者に申し訳ないでしょう?作者は言いたいことを書いているわけですから。だから翻訳家には責任があるわけです。

日本語の学習者、翻訳家を目指している人に向けてのメッセージ
~それでは最後に、ナラン先生から日本語を勉強している人、翻訳家を目指している人に向けてメッセージをお願いいたします~

1980年代、私が日本に留学していた時は、電車やバスの中で日本人は皆、本や新聞を読んでいましたよ。今は携帯電話を見ていますね。以前に比べれば、本を読まなくなったかもしれませんが、日本には本がたくさんあるんですよ。皆さん、Amazonなどでも購入しますよね?たくさんの人が、たくさんの本を読んでいます。日本は本の大国です。モンゴルの教育、人の発展に貢献できる、日本の文化をモンゴルに取り入れられるのは翻訳ですよ。翻訳家はたくさんの本や映画を翻訳していけば力がつきます。

私たちは日本から学べる事、見習うことがたくさんあります。モンゴルでは昔からインド(サンスクリット語)からたくさんモンゴル語に翻訳された書物を読んでいます。それらはまるでモンゴル人が書いたように伝えられているほど多くの書物があります。そのように日本の本をたくさん翻訳してほしいなと思います。先にも述べましたが、翻訳すればするほど力はついてくるものだと思います。続けること。それが大事です。日本語の勉強はもちろん、モンゴル語もきちんと勉強すること。たくさん本を読むことですね。
私もモンゴル語に翻訳したい日本の本がたくさんあります。楽しみながら共に頑張っていきましょう。

2020年6月4日
インタビュアー;藤野紀子/モンゴル日本センターJF講座調整員